sho fujimoto|藤本翔って誰?(長文) – sho fujimoto|藤本 翔

sho fujimoto|藤本翔って誰?(長文)

どうも、藤本翔です。たまに「芸名ですか?」って聞かれるけど、完全に本名です。せっかくなので自分のプロフィールを書いておきます。もう名刺交換するのも面倒なので、「これ読んどいてください」って言えることが目的です。

 

藤本翔のプロフィール

生まれは両親の出身である徳島県で1983年に生まれました。2歳になると両親の仕事都合で大阪に引っ越し。父親は画家(絵描き)として、母親はパートタイムの美容師としてぼくを育ててくれました。そう、何を隠そうぼくはアーティスト家系に生まれたのですよ。

 

幼少期の頃の記憶はほぼない。保育園では「危険的な悪さ」をするガキだったらしく、ほぼ毎日 “もと先生” という体の大きな先生とぼくは紐で繋がれていた。(今考えたら問題になりそうな・・・)

 

モテまくりの小学生

キモい話しだけど、事実。小学生の頃はモテた。当時V6がデビューした頃で流行ってた。ぼくは自分でも意識してたけど三宅くんに似てると言われ、思って、調子に乗っていた。バレンタインデーの日にはクラスや自宅に行列ができるほど女の子がやってきて、1日で50〜70個くらいのチョコレートをもらってた。今でも覚えてるけど、SNSもない当時になぜ隣の小学校とかから女子がチコレートをわたしに来てくれたのかは謎だ。

 

大好きな父との死別

 

ぼくが小学5年生の春。しかもこどもの日に尊敬する大好きな父が病気で他界した。なんと父は35歳という若さでこの世を去った。パート勤めの母と子供2人を残して死んでいくのは、想像を絶するくらい悔しかったと思う。不安だったと思う。

父はぼくにとって、ぼく自身だった。またこのストーリーはどこかで紹介するかもしれないけど、ぼくの人生、性格を決めた大事件に小学生の頃直面した。

 

中学時代はラグビー以外記憶なし

中学に入学し、本当はサッカー部に入りたかったのに何故かぼくの中学校はサッカー部がなかった。そのかわりグランドの大部分を占めて練習してたのがラグビー部。どうやら強豪校みたいで、ラグビー部のレギュラーは学校のスターだった。

今のぼくの体型を見て「ラグビー部でした」って言うとほぼ嘘つきやと思われるけど、事実。

しかもぼくは2年生の終わり頃からレギュラーに抜擢され、3年生の頃はバックスリーダー(攻撃司令塔)という大役まで任されるように成長。大阪大会で優勝したので当時のレギュラーメンバー9割はスポーツ推薦枠で高校に進学。ぼくにもありがたいことにラグビー強豪校からいくつか推薦をもらった。進路指導の先生も当然のようにそれをぼくに進めて来た。

だけど、ぼくは気づいた。「このままラグビーを続けたらアホのまま終わるのでは?」

ぼくはとにかく頭が悪かった。自分の頭が悪いことに当時真剣に悩んでいたのだ。だからラグビーとはキッパリ縁を切り、学問の道を進むと決めた。そして入れる高校はないと言われたが、猛勉強の末なんとか「中の中」くらいの公立高校に進学することができた。

 

ダンスと女に人生を捧げた高校生活

学問の道に進むと誓ったはずが、私服で校則もゆるゆるの公立高校に進学した青年(ぼく)はまたもや遊びに走った。今ほどダンサー人口が多くない当時、何の番組か覚えてないけど深夜のテレビで伝説のブレイクダンスチームBRONXの映像を見てしまった。

 

この映像に衝撃を受けてしまい、ブレイクダンスにハマりにハマった。BRONXさんのダンス映像をビデオテープに録画し、当時仲が良かった4人の友達と一緒に授業中、視聴覚室に忍び込んでこのビデオを見せて「ブレイクダンスチームを作ろう」と誘った。

ここからぼくのブレイクダンス人生が始まった。いろんな大会に出場し、優勝し、賞金をもらう。夜はクラブハウスのショーケースとして呼ばれ、ギャラをもらうようになった。この時点でアルバイトはやめ、ダンスだけで生計を立て始めた。ぼくは自分で踊るのも好きだったけど、他のチームの振付構成を考えるのが好きで、約100チームの振付をさせてもらった。(もちろん有料でww)

そんなことをやってると、初めての彼女もこの時期にできた。女性とお付き合いすることがこんなにも幸せなことだったのかと電撃が走って、熱中した。今となっては可愛い恋愛だったけど、とにかく一途なタイプだった。

 

大学に進学できず専門学校へ

またもや高校で遊びすぎてしまい、勉強ができないまま一瞬にして3年間が過ぎ去った。進路相談では「ぼく、京都大学を受けるつもりです」とホザき、先生に爆笑されたのを覚えてる。一応センター試験を受けて見たものの、確か50万人くらいが受けてぼくのランキングはなんと49万3,765位(今でも覚えてる)

真剣に受験して「わざとか!?」と思われるほどの低脳。自分を呪った。母親からは学費も払えないから美容師になったらどうかと提案を受け他ので、いくつか美容専門学校の見学会には参加した。だけどぼくには致命的な欠点があった。それは人の髪の毛を触れないという変な潔癖だった。

働く勇気もなかったので、母親に頼み込んで、自分もアルバイトをしながら学費を払うと約束して外国語専門学校に入学。お金さえ払えば誰でも入学できる甘すぎる専門学校だ。

専門学校に入学させてもらうからには、絶対に勉強し、将来母親を楽させたい。今度こそはと意気込んで大金を払って入学。

 

しかし・・・・またやってしまった。

 

専門学校時代もダンスと女に明け暮れた。あまり大きな声では言えないけど、学校には2年間(2年制)のうち半分も行ってないんじゃないだろうか。母親には本当に申し訳ないことをしたと今でも反省してる。

 

専門学校卒業生は就職できず

月日はまたもや一瞬ですぎてしまい。専門学校卒業が間近に迫ったある日。就職相談課でぼくは「三井物産か三菱商事に就職するつもりです」とホザく。相談課の担当者が目を点にしてたのを今でも覚えてる。ここまで来ても、まだぼくは大バカもんの世間知らず。

それでも三井物産、三菱商事に履歴書を送りつけた。がしかし、「書類選考落選のお知らせ」しか届かなかった。何がアカンねん!と意味不明ないちゃもんをつけるために大阪支社の人事部まで突撃、直談判する。

すると人事担当者から「うちは原則、大卒者しか選考してないんですよ。ホームページにもちゃんと書いてるはずですけど」って言われてしまった。通っていた専門学校のパンフレットには“就職率90%”と大きく書いてあったのに・・・・・。それは選ばなかったらという前提条件であることを知らなかった、クソ馬鹿やろうで終わった。

 

3週間で猛勉強、奇跡の大学編入

希望の就職ができないという事実を目の当たりにして、ぼくは「だったら大学に行ってやろう!」と反骨心むき出しで勝手に決めた。母親に何の相談もせずにだ。学費のことはまたアルバイトで何とかできる自信があった。

ただし問題は大学1年生からやり直すのはあまりに馬鹿らしい!ということ。これは調べた結果、「編入」というルートがあるようで、かなり狭き門ではあるが大学3年生からスタートすることができる仕組みを発見。

例の商社が学歴重視であれば三流、四流の大学に行っても仕方がない。しかし一流、二流の大学にウルトラ頭悪いぼくが入れるのか!?しかも3年生からの編入というのはかなり狭き門という最大の課題があった。

そこでぼくがとった手段は、大学の経営状況を調べるというもの。理由は大学もお金儲けの組織だろうと勝手に想像し、学生の退学者が多くて苦しんでるタイミングの関西一流、二流の大学を徹底的に調べた。大学の経営サポイートをやってるという胡散臭いコンサルタントの元に足を運んで、投資回収の年間予算が高い大学などもリストアップした。

つまりそういう経営にちょっと焦ってる大学だったら、定員枠少なくてもそれ以上の合格者を出すのではないか!?という仮説。

何とも悪どい考え方だけど、今となっては我ながら天才的だと感じる。

もちろん死ぬほどアホだったので、3週間死ぬほど勉強した。全部暗記というよりかは、過去の入試問題などから傾向を分析してかなりピンポイントに絞り込んで勉強した。今思えばそのマトが外れてたら今はない。

そして何と見事、一流大学、二流大学含め3つの大学に合格してしまった。狙ったかのように3年生からの編入に成功したわけだ。それも私立だけど関西ではそれなりに名前の通った大学に。

 

声を出すことすらない大学生活

ぼくは大学3年生、4年生の2年間。何と、誰一人として友達ができなかった(笑)編入ってそんなものか??サークルにも「1年生はOKだけど、3年生で新規はNGです」みたいなところが多くて、結局のこところ電話番号を交換する相手もできず。「おはよう」と声をかける相手すらもできなかった。

友達0人のキャンパスライフは想像を絶する。まず授業には絶対、全部出ないと単位が取れない。代返をお願いすることも、ノートを借りることもできない。情報の収集が全て自分1人に限定されていた。「先生が欠席で授業が休校になる」という情報も自分でわざわざ学校に出向いて掲示板を見ないと知ることができない。だから何度も「えっ!?わざわざ2時間かけて大学まで来たのに、授業休みってどういうことやねん!!」という経験もした。

大学で友達0人、声を出すこともない。となればもはややることは1つ。「勉強」しかなかった。片道2時間もかけて通学し、学校が終わったらまっすぐ家に変えるだけの生活。往復4時間も電車に乗っている間、当時はスマホもなかったので時間を持て余した。

必然的にぼくの足は毎日大学の豪華な図書館に運ぶようになり、図書館に終電まで居座った。活字を読んだことがないぼくは、まず漫画から入ったわけだが、大学の図書館に普通のコミックが並んでるはずがなく、何となく読み始めた小林よしのりさん(おぼっちゃまくん著者)のゴーマニズムシリーズを熱中して読み始めた。

さてこういう本を初めて読み始めると、、、、アホほど熱中した。そしてもっと自分の国のことを深く勉強したいと暑くなり始めた。最初は漫画からのスタートだったけど、次に読み始めたのが渡部昇一さんの本。

 

もう本の並びで何となく予想はつくが、見事に右寄りの思考がぼくの体の芯まで染み付いた。元ダンサー、ヒップホップ大好き、右寄り思考のぼくにとって当時衝撃的にハマった映画も例のごとく「狂気の桜」

 

 

 

ダンサー時代にクラブで何度か一緒に踊り、飲んだ窪塚夫妻。その窪塚くんが主役のこの狂気の桜は今でもたまに見返してしまうほど、ぼくの人生に大きなインパクトを与えてくれた作品。NetflixやAmazonプライムでも見れるので会員の方は是非!?

これらの本や映画に触発されたぼくは21歳の頃、道を英語で尋ねてくる外国人に「ここは日本じゃ!日本語で喋れこのやろー」と本気でホザいてたし、丸坊主にしてた。そして右翼の街宣車に突撃して中に入らせてもらい、イデオロギーについて語り合った。かなりヤバイ奴に。

とにかく、大学時代はひたすら本を読んだ。年間に300冊は間違いなく読んでた。そして授業に出るしかないし、休憩時間も話す相手もいないからひたすら勉強した2年間。するとテストの成績もメキメキ上がってきて、PEC(professional English Course)という選抜に選ばれ、全ての授業を英語で行ってた。

ちなみに研究テーマは宗教と経済。ぼくはイスラム教を専攻してた。

 

 

意中の商社に内定もらいまくる

さてそんな右寄りバンバンで大学時代はひたすら読書と勉強をしたおかげで、就職活動期間は面白いくらい意中の商社に内定をもらった。三井物産、丸紅、伊藤忠商事、双日、などなど。しかし大学時代に勉強した知識の中で自分自身の人生キャリアプランを設計するようになってた。

何のために就職をするのか、冷静に考えられるようになってた。ぼくが立てた人生キャリアプランは当時、「世の中を面白くする会社を作りたい」という漠然としたゴールがあり、上手に会社を経営するために必要な能力として、

  • セールス(営業能力)
  • マーケティング(お客様を集める能力)
  • ファイナンス(お金の能力)

かなり漠然とだったけど、この3つの能力を身に付けることができれば会社経営はできるのではないか!?と仮説を組み立てた。よって、一番最初に入社する会社は、最短で営業力を身につけられる環境が一番という視点で選んだ。

それが1666年創業の超老舗商社ユアサ商事だった。この会社を選んだ最大に理由が、先輩社員面談の時にアホみたいな顔をした先輩が「うちは泥臭いで〜毎日酒飲むし、毎週ゴルフや。酒とゴルフがイケれば一人前やで」って発言したこと。周りの大学生は引いてたけど、ぼくには他の商社が綺麗事を言ってるのよりも魅力的に感じた。

ちなみに当時のぼくはお酒一滴も飲めず、ゴルフなんてもちろん未経験だった。

 

 

THE昭和的カンパニーユアサ商事

晴れて4月にユアサ商事に入社した。予想通りテレビドラマでしか見たことがないようなドロドロの昭和的スタイルの会社だった。でもそれがぼくの求めていたことだった。先輩たちはオッサンばっかりだったけど、めちゃくちゃ愛があってぼくは大切に育ててもらった。

今でも忘れないエピソードがある。もう笑い話だけど、展示会で四国に4日間出張した時。同じホテルに泊まってる先輩たちと真夜中までぼくの部屋で飲み明かした。すると先輩の一人が「藤本、お前一人でオナニーしろ!」と言い出した。

女性がもしこの文章を読んでたらスッ飛ばしてくださいね。

先輩が言うことはもう絶対だったので、ぼくはその場で了解。一人で興奮し始めると、それを見た別の先輩が面白いからと言ってベットの枕元にあったBOXティッシュの中身を全部抜き出した。空になったBOXティッシュをぼくに手渡して、

「そのフルボッキした全裸状態で、ホテルのフロント女性に“すいません、ティッシュおかわりもらっていいですか!?”って言え!」という無茶振り。でももちろん、やりますよ。はい。んで、そのぼくの後ろ姿を会社支給のゴキブリみたいなガラケーで先輩は撮影してた。

あの動画が今出回ったら、ぼく死ぬかもしれません。

あの時のフロント女性には今でも悪夢でしょうね。本当に悪いことをしたと思う。だけどあれはあれで、いい思い出になってます。そんなアホみたいな昭和カンパニーだったけど、仕事には熱中した。夜も会社に残ってる先輩を見つけては、「飲みに連れてけ!」ってせがんで遅くまで会社の愚痴や家族の話を聞いた。

とっても愛があって、誇りを持てる仕事ができた。ただのポンコツ学生だったぼくを、よく育ててくれたと思う。今でも感謝してもしきれない。

そんな大好きだった会社をぼくは丸2年で辞めた。理由は自分の中で設定してたノルマを終えたから。営業はぼくにとって十分学べた。だから次へ行こうと。

 

 

マーケティングを学んだ9年間

転職活動はそんなに難しくなかった。第二新卒枠と言う枠は、当時世の中から選ばれていることを知っていたから。そしてここでもすんなり、予定していた経営コンサルティング国内シンクタンク系トップの船井総合研究所に転職。

入社してとにかく驚いたのは、若くて優秀な奴がゴロゴロいるということ。それに彼らがマジでよく働く。飲みにも行かず、会社に泊まり込んで仕事をする。嫌そうな顔をしてる奴はおらず、皆んな目がキラキラ輝いてた。

ぼくも入社初日からその洗礼を受けた。転職で初出勤したのが4月21日で、初めて丸一日のお休みをもらったのが9月10日だった。今では完全にNGだとは思うが当時は自らすすんでぼくもそれを受けた。仕事が楽しくて仕方がなかった。

経営コンサルタントになって、3年目。ぼくは人生で初めて役職をもらい、1つのチームを運営する責任者になった。この頃から小さな経営組織体を運営する練習ができるようになった。そして、仕事を通して人の夢を叶える経験をたくさんした。

ぼくにとっての「人生の喜び」は「誰かの喜び」であることを発見した。クライアントの会社が経営に苦戦してる。そんな時に僕らがサポートに入り、根っこから立ち上げていく。うまく悪いところを修復し、成長路線に乗れた社長から伝えられた感謝の言葉は今でも覚えてる。そしてチームメンバーが成長し、独立。家族ができたり、子供ができたという幸せな報告を受けることがぼくにとっての生きがいだった。

予定では2014年に次へのステップ。つまりファイナンスを体得するためにファンドかキャピタルに転職するつもりだったけど、仕事と仲間、そしてクライアントさんのことが大好きだったので、居心地が良かった。そしてかなり自由度が高い会社だったので、自分なりにファイナンスの勉強を同時進行でやっていくことが十分にできた。

そして2017年の夏、ぼくは9年間お世話になった船井総合研究所を退職し、「藤本翔」という個人として独立することを決めた。

 

 

アーティストキャリアのスタート

さて、11年間サラリーマンを続けたぼくですが、独立して何をするのか。きっとそれはぼくを身近に知る人たちは興味があったことだと思う。ぼくが独立するにあたり、決めてたことがいくつかあるので最初にそれを書いておく。

  • 仕事とは世界に対するイタズラである
  • お金のための仕事はしない
  • 誰かを喜ばせることだけをする
  • 誰かが苦しむビジネスはしない
  • 父親に誇れる仕事をする
  • 家族と仲間を一番大切にする

ぼくが決めた自分自身へのルールはこれだ。どうしても元経営コンサルタントだと「何か凄いデカいビジネスするんじゃない!?」「儲かること一緒にやろうよ」という声や誘いがある。だけどぼくはそれを全て断っている。

ぼくが一番最初に始めたプロジェクトは、株式会社Casieだ。この会社は「アートで世界中をカッコよく、世界中を面白くする」ために存在する。そしてぼくの父親が画家だったこともあり、若手アーティストの経済的支援を実現したいと本気で想って立ち上げた。

創業ヒストリーは会社のページに詳しく書かれているので、ぜひ読んでみてください。

 

Casieとは

 

Casieにはぼくを含めて3人の創業メンバーがいる。いずれも家族のように大切な仲間であり、ぼく以上に力のある人間だ。まだまだ生まれたての会社だし、ユーザーやアーティストさんに迷惑をかけちゃってるところがあるのも本音だけど、徐々に整備され始めている。

ぼくは父親から「人生は表現活動だ」という話をよく聞かせてもらった。人は知らず知らずの間に世の中が設定した“みんなと同じが正しい”という少し洗脳がかった常識に流されてしまう。

みんなが高校、大学へ進学するから受験勉強をする。

みんながリクルートスーツを着て、就職活動をするから。

みんなが休日を楽しみに平日は我慢してお金のために働く。それが当たり前だから。

35年ローンを組んで夢のマイホーム。周りのみんなが家を買ってるからそれが当たり前。

なんだろう、この違和感は。ぼくの父親が言ってた「人生は表現活動」というのは決してアーティストじゃなくても同じことが言えると思う。絵が描けなくても、歌が歌えなくても、人生は表現活動なんだと思う。

 

生まれたばかりの赤ちゃんは、自分の人生というキャンバスは真っ白だ。そこに小学生になるまで、色んな遊び心や好奇心で色が塗られていく。まさに自分色。だけど、小学生になり集団行動が始まり、みんなと一緒が正しいと教えられる。授業で先生が教える通り、右の友達がキャンバスに黒い十字架を描けば自分もその通りに描く。幼い頃に素直な気持ちで持っていた「自分らしさ」が大人になるにつれてどんどんなくなってくる。

でもそれが常識だと教えられるので、何となく違和感はありながらも知らず知らずの間に自分らしさを消滅させてしまっている。大人になっても、決まった給料をもらって安定した生活ができないとローンが払えない。だから毎週通勤も合わせて50時間もの時間を我慢に当てる。

人の時間は誰しも平等だ。

1年間は皆んな8,760時間。そのうち我慢に3,000〜4,000時間も費やしていいのだろうか。

 

『自分が、時間を忘れるほど熱中することは何か』

『怖いけど、本当はやってみたいことは何か』

『もし神様が毎年元旦にあなたの銀行口座に死ぬまで1億円振り込んでくれるとしたら、何をするか』

 

人は誰しも、アーティスト(表現者)だとぼくは信じてる。

 

毎日自分が本当に好きなことをして生きていくこと=幸せ

 

この方程式が本当に正解なのかどうか。ぼくは自分の人生を賭けて表現活動という実験をやっていこうと思う。

 

Twitter sho fujimoto